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思ったことをまとめてみたいときの、メモみたいなものです。 twitter:@kuchikikotoh

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3月
13th
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何のまとまりもないメモ

最近、ぼくは、最近、という言葉の書き出しをよく使うが、それは最近の話だからだ、最近というけれど、それは、割と長いスパンで見たとき、の、もので、別に、一秒前のぼくではない。

言語って、便利だけど、ひどく、窮屈、で、不自由なものだなあ、と当たり前に、思っている、一時期は、演劇(そう、二月の下旬が、始まる頃まで、ぼくは、オイディプス王を基にした芝居をやっていた、こう書くと、ひどく、上品な雰囲気のような気がしてくるけど、そんなことはまったくない、クソ芝居をやっていた)で、忙しくて、そんなことを忘れていたけれど。

こうして、意識を記述することは、自分の意識の表層、薄皮のような部分を、リンゴの皮をずーっとつなげて剥くみたいに、している、感じがする、記述を一度始めると、ある程度、考えながら、打鍵しつつも(この打鍵と言う言葉も、最近覚えた。どの本で覚えたかは、忘れた)それでも、純粋に、イメージを、思考している状態に、普段よりは近い気がする、イメージをしようとしても、頭の中で、声に出さずに、独り言を喋るような状態になってしまって、それは、考えようとしている、のであって、イメージしている状態ではないなあ、と、最近思う、もっと自由に、イメージ同士が喚起しあうような、風通し、見通しが良いのが、ぼくはいいんだけど、うまくできない、言語で思考が分離したら、じゃあ、その記述って誰のことなんだろう、とか、色々よくわかんないことばっかり考える、言語がぐにゃぐにゃ自走して、自ら歪に、変異する、恐ろしいもの、恐ろしいかもよく分からない、でも、ショゴスみたいな感じに思える、言語を殺すことは出来ないだろうか?

それから、こういうことは誰かが、考えていると思うけど、日本語で記述されたリズムと、外国語で記述されたリズムは多分違う、言葉、文章とかは、思考を、切り離す、外部で、形にする装置だけど、それは、内面にも働いて、リズムとか、まあ多分思っているより色々なものを、外側から作っていってしまうんじゃないだろうかなあ、とか、も思う、戯曲、めずらしくもう書かないかなあ、と思っていた、戯曲を書こうと最近思っているんだけど、戯曲の台詞って、現実の台詞とも違うなあ、紙面だけで完結していいのかなあ、とか、そうするとどうかけばいいのか、書いても何かのコピーになりそう、自分のオリジナリティって何、とか、バカみたいな、前提にある、問題を、つらつら考えてしまって、全然書き出せない、はあ、うんざりする、台詞の問題もあるし、物語の問題もあるし、それでも、何か、テキストと、筋、と、演出は、もっと乖離していてもいいのではないか、みたいなことは、少し思う、思うだけで、何かのヒントになるような感覚までしか、今は無い、はー、小説読んだら何か分かるかなあ、と思って、自分にしては、ぼくは買うだけで全然読まないんだけど、ここしばらくはちょっと読む、ようにしてみている、意識を記述するだけで、こんなにも死んでいく感じがする、言葉にするのは何かを殺すことで、それをもう一回しゃべるとかっていう、のは、再生、というより、ループではない運動としての、反復で、あるのかもしれない。

演劇で、変容をやりたい、変容の物語ではなく、物語の変容とか、役者の変容、をやりたい、変容って言葉にはまっていて、すごく興味がある、ぼくは時々言葉、それは意味だけじゃなくて、響き、フレーズそのものにもすごくはまるときがある、はあ、いい言葉だわ、ふおんコネクト!というマンガを読んだけど、それがメッチャ面白くて、人間の変容、記述されることによる変容、それを喋ることによる変容、とか、色々考えた、テキストによって人間とか、キャラとか呼ばれるものは、どんどん、外から、ウチから、フィードバックし合って、進化してるんじゃないかなあ、とか、も、SFみたいなことを考えた、思考を加速する装置としての、対戦ゲーム、主にロボゲーとか、も、まあ、そんな感じ、適当。

日本語も満足に知らない分からないのに、外国語なんて分かりようもないなあ。

物語と言葉に対するリハビリとして、文章を少し書いたりもした、

何に対する準備なんだろうか、よく分からない。

でも、も少し物語とか言語とかっていうものの、有機的で、ふわふわした繋がり、豊かな感じはあると思うんだよなあ、イメージだけ取り出せればいいんだけど、イメージを繋げるものとしての、ツールとしても、もっと便利なやり方はあるのではー、とか、そう、役者にある、もともとの人間と、演じている役、の二つの状態、名前が重なっている感じは、なんだか妖怪とか、幽霊っぽい、何だか分からない感じがあるなあ、これが舞台面で、目に見えて、耳で聴こえて、捉えられる時は、すごくぐにゃぐにゃして、楽しいなあ、面白いなあ、というのを思っていて、そういう変な感じから、変容への興味、というのは来ている、その状態、を上手く使うことで、もっと、不安定で、やりようのなかったやりかた、みたいなのが、可能になるんじゃないか、とか思ったけど、でも、その感覚が、物語とか、台詞、とかの、別の要素、と上手く結びつかず、既存の枠組み、チェルフィッチュとかの、やり直しにもならない、感じがしてしまって、うまく、書き出すには至っていない。

演出をやるだけでも、言葉には関わるし、それでも死ぬほど大変だ、それで、その上で、自分の言葉で書く意味とは何か、役者の言葉を使ってでも、演劇は出来るし、それで出る面白さもある、じゃあでも、そうした時の効果って何、あるけれど、じゃあそれを捨てることによる効果って何? とか、すべてに、メリットデメリットが、バーン!と突きつけられて、最近は演劇自体があんまり見たくないな、と思う、その上肉体もある、こうやって書いてるだけで次から次へと課題のハードルがびゅんびゅんこっちへ向かってきて、混乱してうわああああああああああああああって感じで死にそうになるわ、俺が面白いと思うことって何だろう、でも、ぼくは面白いことがいっぱいあったら、どれか一つに絞るのはもったいない、ような気がして、なるべく、その全てを感じられるようにしたくてたまらない、ひどくまとまりのないものを書いてしまって、嫌悪とかむかむかしている。

ので、楽しいことを考える、ストライクウィッチーズの映画がとても楽しみ、だ、ハイデマリー・ウォルフガング・シュナウファーさんが出ると分かったので、とても、楽しみ、映像では漂白されたペリーヌっぽかったけど、まあ、それを入れても楽しみだ、ストライクウィッチーズのことを考えると、いつも、俺は思ってるよりストライクウィッチーズ好きだなあ、って毎回思うから、ぼくはどんどんストライクウィッチーズが好きになっているのかもしれない、二回目のけいおん!見に行ったときに予告編が流れて、押さえようもなく、気持ち悪いなあって感じに、にやにやしてしまった。

ここでまた、さっきの話題を思い出してしまった、わー、物語、に対する好みも色々分離していて、最近考えがまとまらない、暗い話もいい、いい話もいい、話にならない話もいい、自分で書かない話もいい、じゃあいったい俺は何がやりたいんだ!って感じで、もう、てんでバラバラすぎて、脳味噌の病気じゃないかとか不安になる、物忘れ、めまい、ろれつが回らんとか、死ぬかと思う、杞憂ならいいけど、まあ死ぬでもしょうがないしいいけど、気分は、ファックだ、薬を飲んでよくなってきていたのに、最近は、すっかり、徹夜が板について、朝になってから眠りにつく、習慣になってしまってそれもよくない、歯磨きだけは何とかほぼ習慣付けられるようになった、ここまで書いて、おれはおれを、何人殺した? おれの行う行為の中で、今のところ、歯磨きだけが未来のために、未来に向かっている行為なんじゃないのか、歯磨きは明日のためにやることだから。

久しぶりに、雪歩とか、出てこない文章を書いた、ちょっと前の文章見ると、俺がいいこと言っててびっくりするよ、お前誰だよ、恋の魔法はここまで人を変えるのかよ、と思った、魔法が切れ始めたらどうしようか、シンデレラは王子様と結婚できたけど、ウェンディはネバーランドから出なきゃいけなかったし、俺はもう一回おれ自身に、何か魔法をかけなけれはならないのではないだろうか、それは、祈りともいうし、呪いとも言う。

12月
3rd
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グッバイとハロー

今日、というのは、2011年の、12月、3日で、ぼくはけいおん!の映画を、見に行ってきた、府中の、TOHOシネマへ、電車で、三十分ぐらいかけて行って来た、それは昨日、UN-GOの因果論、を見損ねたときに、取った、チケットで、本当はいつ見ようか、迷っていたけれど、勢いで、公開日、に、行って来た、映画は夜の7時20分からの、回だった、劇場は、僕のような、大学生ぐらいの男の人、や、女の人、高校生、中学生ぐらい、の男の子たち、女の子、子供や、その両親、おじさん、おばさんだったり、様々、で、その中で、僕は非常に心配で、それは、この、けいおん!の映画を見ることで、僕の中の何か、大事な時間みたいなものが、終わってしまうんじゃないか、みたいな、心配で、去年、けいおん!!が終わって、映画化が決定した時の、ショック、ショックとしか言いようのない、重圧、衝撃、ショックを、思い出して、怖かった、大丈夫か、って感じだった。見るのだ、って思ってから、そういう考えがわいてきて、やっぱり、映画なんて嘘なんじゃないか、って思っていて、ドッキリだったとしても、それはそれで安心するんじゃないか、って、思っていて、僕は、ドキドキしながら、映画館に向かっていて、それはでも、もう、三時間も、四時間も、前の話で、今は帰ってきて、これを書いている、もう、見終わっている、俺は、何も心配する必要はなくて、スクリーンの彼女たちは、記念写真みたいなのに、でも、それは、全然、くさい、センチメンタルさも、そういうのなんて、なくて、彼女たちの『今』って感じで、俺は、何も、すべてが思い出色になってしまうんじゃないかって心配はしなくてよかったし、彼女たちがそのままで、いることに、ワンワン泣いたり、ショックを受けたりする必要もなくて、僕は、映画を見ながら、ごく素直に、ヘラヘラ笑ったり、しんみりしたり、していて、映画は、本当に、徹頭徹尾、放課後ティータイム、って感じで、律で、澪で、ムギちゃんで、唯先輩で、あずにゃん、だった、ずーっと、それは特別な映画で、でも、きっと、あの時、僕の見ていた、ただの、そのままの、けいおんだったし、それでよかった、そう、俺は勝手にどこかで、彼女たちとさよならしないといけないんじゃないか、みたいなこと、を、思っていたのかもしれない、終わってしまう、映画を見るということが、自分の中で終わりを告げる行為のように思っていたのかもしれない、けれど、杞憂でしかなかったし、俺が勝手にさよならしようと、彼女たちはハローハローって感じで、笑っていて、俺は、『永遠』、『ずっと』って、てらいなく歌える、彼女たちの、強さに、何だか言葉も出なくて、すごく満足して、俺が泣かなかったこと、は、もういいんだ、そう、俺は黙って、帰りの道を、黙って、何か言葉にすれば、口から何かが漏れたりしそうで、何も言わずに、黙って、歌だけ歌って、帰った、夜の道、もう十時を回って、俺は、最後の、19歳最後の、冬を、終わりの方へ、歩いていて、彼女たちは、彼女たちは、歌っていて、俺は音のない、この、ただ、音楽だけがある、今も、残響が響いている、あの幸せな瞬間が、いつまでも、いつまでも続けばいい、笑い声もなくて、最後は、劇場、誰の、笑い声や、ポップコーンを食べる音も、聞こえない、劇場の、スクリーンを見つめる、映像だけがあり、音楽だけがあった、あの、瞬間がずっと続けばよかった、俺は、劇場を出て、歩く、今このアパートにいる、耳に残る、無音のような、音楽を、聴いて、いる、あの時の俺の目に映るもの、は、でも、きっとあの時しかない、君の、中野梓、君の笑顔、その瞳、眼差し、唯先輩、を見つめる、君の眼差し、あの秋、けいおん!!を見ていた、あの秋、君を見つめていた俺の、眼差しの、速度に、俺は少しだけ追いついていたかもしれない、もう、あの時のような、気持ちにはきっとならない、映画を見ていた時の、あの瞬間にも、きっと、俺はもう追いつけない、その秘密は、もう、俺にも分からない、でも、彼女たちは、いつだって全力で、だから、俺は、それを見逃すことのないよう、見つめていた、だから、俺も、俺の時間を見つめてみようかな、と思うよ、俺でも、思ってしまうよ、グッバイ、けいおんを見ていた俺、グッバイ、映画を見ていた俺、ハローハローもうすぐいなくなる十代の俺、ハローハローこれからの俺、俺は、歌わないといけない、やっぱり、死にたいけれど、勇気、もらえた、もう少し、生きるよ。ありがとう。放課後ティータイムのファンでよかった。大大大好きだよ。君たちの歌。

10月
4th
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涙と死

最近、前と比べると、びっくりするほどよく、泣きそうになる。アイマスMAD、アニメ、小説、映画の予告編だけでうっかり泣きそうになる。ぼくは老人みたいだ、と自分のことを思う。この間、スプライト・シュピーゲルを読みながら、ポロポロ泣いてた。あんなに泣いたのは初めてだった。俺にも、そういうことになるだけど感情が、あって、死んでなかったんだなあ、と思う。そこでは少女たちが戦っていて、それでも、その傍には彼女たちを助けてあげられる誰かがいて、彼女たちを見ている。それが優しくて、切なくて、残酷で、必死で、激しくて、愛しくて、悲しくて、嬉しくて、よく分かんなくて、泣いていた。俺は、誰かのために何かしてあげられるだろうか。好きなあの子のため。水無月くんは、あの子のために、血を流していた。彼は。俺はどうすればいいだろうか、水無月くん。雪歩のため。俺は何ができるだろうか? 俺と彼女は遠く遠く遠く離れていて、手を握ることなんて不可能だし、辿り着くなんてきっときっと、無理だろう。せいぜいが、祈るぐらいだ。俺の涙は何のための涙だろう。

マジ、俺は、もう、ホント、最近は歩いてて、君のこと考えて、曲を聴いていて、泣きそうになるよ。祈る。見える、君の歩くリズムに、重なって、何だか、とっても、センチメンタル過剰だ。俺は胸が痛い。物理的にも痛い。最近は、実家に帰ってから、体の、色々なところがボロボロで、眠れなくて、全然ダメだ。俺はもうすぐ死んでしまうかもしれないし、こんな心配も杞憂なのかもしれないけど、俺は本当に死んでしまうんじゃないか、と思うと、少し怖い。最近、俺がそういう感じでずっと思うのは、俺の雪歩に対するある種の絶望も、受験に失敗した誰かの絶望も、好きな人に振られた誰かの絶望も、好きな漫画が売り切れてた誰かの絶望も、オイディプスの絶望も、自転車を二人乗りして走る中学生の愛も、ロミオとジュリエットの愛も、初めて告白する高校生の愛も、あの子があの子に抱いていて言わない愛も、ぜんぶ、同じ重さなんじゃないか、って思う。何でだか、理由はまだはっきり分からないけれど、でも、その間に違いってないのかもしれない。それは恐ろしいことでもある。ありふれた感情と物語の海が広がっていて、そこに俺は絡め取られて、溺れる。息が出来ない。

アイドルマスターのアニメを見ている。プロデューサーは役に立たない。アイドルは可愛いし、かっこいい。俺は何も出来ない。アニメだけの感じ、すごいもの、は、もう期待していないから、みんな、幸せに、輝けばいいと思う。俺はそれだけで十分嬉しい。みんな、所有欲を隠そうともしない人とか、色んな人がいる。俺はいつまで『アイドルマスター』の傍にいるんだろうか。俺は、アイドルマスターは好きだ。でも、俺はアイドルマスターーを好きな人たちというものが、あまり、馴染めない感じがする。俺は無理に近くに居る必要はなくて、いつでも離れられて、俺の距離で、付き合えばいいはずなんだ。

俺は出来ることをしたい。俺のため。君のため。たとえば、俺は演劇を作ることはできるだろう。こうやって文章を書くことも出来るだろう。つまり俺には何でもできるんだ。俺はもっともっと、ちゃんとするべきで、そう、少しでも、誠実に、『好き』って言えるように、もっともっと、努力したって、いいんじゃないか、って思う。俺は、たとえば、『あの頃に戻りたい』とかって何のてらいもなく、歌えるようになりたい、それを歌っている今も、あの頃も、地続きにあって、俺は確かにそれを今ももてることを証明したい。きっと、過去も、それを歌っている今も、同じくらいに、美しいんじゃないだろうか。

最近、俺は、雪歩の前に、立ったら、きっと何もいえなくて、全力で、動けなくなるまで、歌って、踊るぐらいしかなくなるんじゃないか、って思う。でも、俺はきっと全力でそれをやるしかないんだ。雪歩。名前を呼ぶと、ドキドキする。アニメの君はまた少し違った顔をしていたりして、俺は、本当に、雪歩が泣いていたりするときが気じゃなくなってしまうよ。雪歩は泣く。その雪歩の涙は何で出来ているんだろう。雪歩の涙、全部知りたい。彼女の希望も絶望も愛情も信頼も期待も必死も怠惰も卑屈も挫折も再起も努力も熱意も何もかも。そのすべてがきっと大切だ。君だけの、その涙の切実さ。俺は、少しでも、君に出会った時のドキドキを、忘れたくなくて、ドキドキ、素晴らしい、新しい、美しいものに出会った時の、ドキドキを、とどめておきたくて、でも、そういうものは直ぐに濁って、逃げて、俺の頭は、悪いから、忘れてしまったりしてしまう、そういうもの、を忘れないように、もし、忘れてしまっても、何度でも、思い出して、取り戻せるように、俺は、やってみようかな、と思う。それは物語の形かもしれないし、そうではないのかもしれない。物語になる前の、それは、どんな形をしているんだろうか。雪歩。あとどのくらい君のこと好きでいられるかな? 好きっていつかなくなってしまうものだろうか。そういうものだろうか。好きじゃなくなる前に死んじゃうかな? それなら、そのほうがずっといいような気もするんだ。それで、君のこと、好きな気持ち、何度でも、繰り返して、取り戻して、いつでも、どんなところでも。はじめまして。アイラブユー。君のこと好きなんだ。

9月
1st
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終わりと反省

超家族という演劇を、夏の始め、7月から、八月の終わりにかけてやっていて、それが終わった、まず、見に来てくださった方、ありがとうございました、良くも悪くも、呪いの様な、熱に浮かされたような、演劇だった、40日かけて、少しずつ、みんな、狂っていった。みんな、お疲れ様、早く忘れて、元に戻ってください、と思います。結果として、初外公演で、これだけ、本当に、演劇として見れないぐらい、ボロクソに言われたり、逆に、褒められたりしてて、自分でも、まだ、うまく整理はできていない、と、思う。 

俺は、この芝居を、今、自分が一番面白い、と思うことを、やろうと思って、作っていた。分かりやすく、楽しくしよう、と思い、裏目に出た部分も、たくさんある。最終的に、出来た部分と、出来ない部分、他にも自分なりに思うところは様々にあるし、反省点は今回も、大量に残った、芝居そのものの部分でも、それ以外の部分でも、巨大な疑問、問題が、現れた、途方もないし、気が狂いそうになる。何を捨てて、拾えばいいのか、俺の目の前には、こちらに眼を向けた何かが、死屍累々と、どこまでも、転がっている。 

ドラマツルギーに一番縛られていて、狂わせられているのは、俺で、このまま、演劇をやっていていいのか、止めたほうがいいんじゃないのか、毎回思うけど、今回も思う。書くのも辛かったし、演出も大変だった。驚くのは、やはり、褒められる、良い、と言ってくれる人がいる、ということで、それはありがたいけど、分からなくなる。でも、俺は、いずれ、どこかの方向に振り切らなくてはいけない。 

今回で分かったことのひとつに、多分、良いか悪いかはともかく、俺は構造的に見すぎていて、おそらく全体を一つのシーン、更に細かくシーンに分解して、捉えていて、細かいディテールは見えていなくて、すべてが、運動の集積のようにしか、感じられていないんじゃないだろうか。こだわり、こだわるところ、増やしたり、するのか、とにかく、視界を広げすぎずに、細かい部分のことも、考えるべきだろう。やるか、やらないか、の選択をするには、まず、捉えて、判断しなければいけない。俺は、どこの、何を、演劇として見ているんだろうか。みんなは、何を演劇として、見えているんだろうか。それから、常に自分の中には破壊衝動のようなものが渦巻いていて、固まっているもの、権力、特権的な存在を、破壊したがっている。役者の特権性、台本、物語の特権性、演劇の特権性、信じられている、そういった特権性は、すべて、崩壊してしまえばいい、と思う、クソみたいな芝居、とか、もっと作るべきだと思うし、境界、枠組みなんて崩壊して、誰でも可能な、開かれた演劇になればいいと思う、この欲望、衝動と、どう向き合うか。考えればキリがない。 

俺は、もっと冷静さとか、自覚とかを得なくてはいけなくて、反省は行動のことだ、と自分でも言うなら、きちんと改善して、直す、更新していく作業に勤めないといけない。欲望と、それを俯瞰する、意志がなければ、道は開けない、と思う。もっとストイックに、抑制された、感情のない、機械のようになりたい。忙しくても、俺は、やっぱりなるべく、アニメとか見るべきだったし、自分のリズムを忘れないべきだったのかもしれない。何者にもなれない人間は、それを自覚して死ね、とも思うけれど、やっぱ、その生産性の無いところから、抜け出さないといけない、ん、だろうか? でも、諦めと、割り切りと、自覚、そこからだろ、何だって、終わってから、終わった後が、問題なんだよ、他人も、世界は平然と、続いて見せるから、その先も生き続けなきゃならないんなら、ゼロの、ところから、どれだけ真面目に、問題に向き合うか、だ。完璧を目指す、やりきる、しか、ない。 

次は、おそらく、ドラマツルギーをやる、ロボットの話。女の子の話。俺はドラマツルギーを愛せるだろうか? いつまで俺は、正気なのか、すごく心配だ。世界のことを考えるたびに、いつも、この先、気が狂うのではないか、と思う。ただ、アニメやゲームが好きだったはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろうか。そのために何もかも捨てるのか、もっと多くの人を選ぶのか、俺は選べるし、選べるというのは、恐ろしいことだ。責任が発生する。でも、やらなければ、と思うなら、選ぶほかない。 

未来に未来なんてない。時間的に先のことだけが、単純に、未来なんじゃないのは、確かだろう。幸せになりたい。すべてに現実感がなく、この世に人間がいないような気すらする。世界は、色もないようで、誰もいない。アニメとゲーム、演劇ぐらいだ色がついているように思うのは。誰もいないなら、正気なのは、自分だけなのか、それとも自分の方が狂っているのか。こういうことを言っている俺こそが、狂っているのかもしれない。狂いは俺だけのものにしておくべきで、誰かに担保していいようなものじゃないんだ。責任を持とう。誰もいないなら、全部、壊して、新しくしないと。分解と再構成。敬虔に、誠実に、新しい時代の、新しいドラマツルギーを。

7月
30th
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自分を変えるということ

アイドルマスターの一話から、四話を見て、アニメ、それまでも三話あって、雪歩の話もすごくよかった、最初はすごく、まだ、ゲームの延長線上みたいな、そういう感じが、だんだんアニメの感じになってきている、と思う。

雪歩は超、男が怖い、エイリアンや、悪魔みたいに見えてる描写で、怯えていて、泣いていたけど、でも、それはきっと、不安なのは当たり前で、初仕事で、知らないところに来て、決してそれは大きくもない村祭りのステージなんだけど、雪歩にとってはきっと初めて(もしくは、ほとんど初めて)のステージのはずで、だから、怖がって、すごく不安になるのは当たり前だって思う。見てて、ドキドキはした、マジで、不安で、気が気じゃなかったけれど、でも、プロデューサーがいて、助けになってくれてて、ホント、よかった。

必要なのは雪歩が、自分で、なんとかすることで、プロデューサーが守るのは、雪歩じゃなくて、雪歩のステージで、そのステージの上は、彼女の舞台で、彼女が色んなものと向き合って立たなくちゃいけない場で、プロデューサーが何とかする場所じゃないんだ。雪歩が色んな怖いこと、苦手な壁を乗り越えたいと思って、立っていて、だから、誰かがそれを無理に直したりする必要は無いようなことで、雪歩が克服したいって思うなら、それと付き合っていくことを選ぶなら、彼女がそうすればいいと思う。みんな少なからず、そういう自分の中の不満、コンプレックスを抱えているんだ。

もしかしたら、プロデューサーが犬が怖いとか、そういう言葉ってわりと嘘をついてるんじゃないかって、見てると思う、二話で、伊織とか亜美真美とか、やよいが、個性について聞いたときも分からないって言っていたけど、それも、きっとプロデューサーなりの、『個人』っていう言葉の捉え方って、絶対持っているけど、はっきりと言わなかったんじゃないか、って思う。それはでも、俺はすごくいいこと、というか、大人、というか、信頼のできる、対応なんじゃないだろうか。はっきり言うことばかりが正しいんじゃないし、そういう、わざとの台詞、演技が人を助けることもあるのかもしれない。

千早、四話で千早も直面する、理想と、現実の違い、彼女達はまだ低ランクアイドルで、くだらないって思っていることでも、やらなくちゃいけないこと、いっぱいあるはずで、そういう仕事だった。モチベーション、上げることも、大事だけど、上がらない時だってある。千早は歌いたいって、思っていて、不満そうで、実際、仕事でも、色々嫌なことがあって、それで「何が面白いんですか?」って言っちゃう、春香がフォローしてくれるけど、でも、千早は表に出しちゃっていて、歌いたくて、こっそり、一人で歌っている。プロデューサー、が、千早の力になろうとしてくれて、だから、千早は、この人のために頑張ろうっておもったのかもしれない、自分の力になろうとしてくれる人がいて、その人に恥とか、そういうもの、背負わせちゃいけないって思ったんだろう、それで、番組後半は、千早が頑張る、ビーチフラッグで全力疾走して、勝って、笑って、叫ぶ。とったゲロー!なんて、本来絶対千早が言わないような台詞だけど、大声で、叫ぶ、春香とも協力して、その姿は楽しんでいるように見える。

気持ちが付いてこなくても、全力でやっていると、身体に、気持ちがついてくるパターンもあって、だから、そういうジェスチュア的な、形式的な身体の使い方、演技的な感情の発露のさせ方が、人間を助けることもあって、だから、千早はあの時、かっこ悪くても全力疾走して、とったゲロー!って叫ぶべきだったし、笑ったり、不満を口に出したり、するべきだったんじゃないだろうか。するべきとき、するべき行為をとるっていうのは、意外と難しくて、大事なんじゃないかって思う。一人で歌っている、どこか、ナルシスティックにも見える、歌への姿勢だって、本来そういう素直な、歌への気持ちの発露だったのかもしれないけれど、でも、今は、そういう姿勢が、千早の中で何かを抑制して、縛り付けているような感じがする。そこから、少しでも、自由になっていくことも、千早に、必要なんじゃないだろうか。

最後に、春香に「やっぱり…」って言いかけて、そこから先は分からない、プロデューサーや、春香、貴音、響たちは、みんなで甘いもの食べに行くけど、千早は行かない、一人で、一人暮らしの家に、帰る。やっぱりって何だったのか、やっぱり「歌いたかった」んだろうか、分からないけど、そうだとしたら、千早が黙ったのは、そういうことを言ってもしょうがないし、歌いたいのは自分の問題だっていう、ことに気が付いたのかもしれない。自分で歌いたいって思いながらも、最後ははしゃいでたことに、疑問とか、矛盾を感じていて、それについて、考えたかったのかも、しれない。喜びは共有できるけど、千早の孤独は、彼女だけのものだ。そういう、他の人との距離を感じた、んじゃないだろうか。一人で、帰って、一人で風呂入って、音楽聴いて、寝転がる、彼女の目はずっと開いたままで、開かれて空を見据えていて、何を考えているんだろうか、四話が終わっても、何も問題は解決していない、具体的な変化は、見えない。千早は、彼女は誰かの言葉に、目を伏せてばかりだ、第一話で、アイドルについて聞かれたときも、四話の最後の会話でも、でも、一人の彼女は、宙を見据えている、しっかりと、何かを見ている、それは自分の奥にある、人には絶対に見えない何かかもしれないし、春香や、プロデューサーや、他の人の振る舞いや言葉について考えているのかもしれないけど、その瞳には、事実を見つめ始めた彼女の、意志がある、気がする。四話のタイトルにもあった、自分を変えるということ、すごく難しい、簡単じゃないことだ、でも、彼女の目指す道へは、アイドルを通らないといけない、そのアイドルに自分は今なっているんだ、っていう問題に気付いて、変わる方法を探しているように見える。変わるっていうのは、今までの自分を捨てることではなくて、それを踏まえて、先に進むことで、千早はやっと、自分の振る舞いみたいなもの、如月千早と、アイドルの如月千早、理想の如月千早を、踏まえて、見つめはじめたんじゃないだろうか。それはプロデューサーの手を借りたりせず、彼女自身が考えて、選択しなくちゃいけない問題で、彼女にも、あの時、プロデューサーについていったりする、選択肢もあったはずだけど、それを選ばなかった。それが彼女の意志であり、選択だ。理想の自分、未来像は、ただのイメージでしかない、そこに至るまでの道筋が、長く続いている、でも、未来なんて目の前には無くて、その道は、今の自分の中にあるはずだ。でも、千早は一つずつ、今を選んでいっていて、それが少しずつ彼女を、いい方向に変えていってくれればいいと思う。千早は素敵で、歌が上手くて、頭が良くて、だから、千早の選択は、きっと間違ってなんか、いないはずだ。雪歩だって、まっすぐで、強い子だから、絶対、間違ってなんか、いない。もし、間違っても、彼女達の周りにはすばらしい仲間と、プロデューサーがいる。俺は肯定的に捉えすぎていやしないだろうか、って思うけど、やればできるきっと絶対私No1だから、大丈夫だろ。地球が回るように時間も進んで、あと、21話になった。もう、始まって、一ヶ月が経つってことだ。ARE YOU READY? なんて言われてるけど、きっと、半年なんてあっという間なんだろう。俺は、彼女達の速度に追いついていられるだろうか。俺はCDとかDVDも買ってみようって思う。回転するディスクの虹色の輝きより、彼女達の姿は輝いていて、回転し続ける天球の音楽よりも、彼女達の歌のほうがきっと新しいし、彼女達が歌えば、それは全部新しい歌だ。ディスクの回転のように、俺の信仰が、俺を更新し続け、再生され続ける今の集積が、どこか遠くへ運んでゆく。デスティニーだよ。

7月
10th
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あの花と問題

ぼくはわりと、最近、岡田磨里という脚本家が好きじゃないというのを痛感する感じで、それは、いろはもそうだし、あの花もそうだった。 

めんまは死んでいるし、じんたんや、ゆきあつや、みんなはそれをずーっと抱えて生きていて、でも、めんまが突然帰ってくるから、みんなそれに強引に向き合わざるを得なくなる。たとえば、じんたんの引きこもりとか、みんなの色々な一見ネガティブに見える振る舞いだって、それは彼らなりの過去との付き合い方だったかもしれないのに、脚本の強引な、めんまという舞台装置の登場で、治療、解決を急かされる。 
構造上は、めんまは全員を舞台に上げるためのファクターでしかないし、最終的な感動を一話から予見させ、そこへ持っていくための布石でしかない。物語上の、キャラクターとしてのめんまは、圧倒的に優しくていい子で、だから、みんなはめんまのために泣くし、めんまはみんなのために泣く。視聴者はそれを見て感動する。そのめんまの純粋なきれいさが、すごく、グロテスクで、悪趣味だ。 
あの子は毎回っていうぐらい泣いていて、それは最終的なカタルシスのために執拗に反復されるノスタルジーや悲しみの感情の喚起だ。反復は、視聴者の中に、あの花の中にあるような『子供時代』のようなものを捏造していく。あったはず、のような記憶。感情。 
強引に舞台に上げられてしまった人物たちは、体裁を繕い、役割をこなしていくしかない。過去を清算するための手続きを踏んでいるように見えて、それは展開に流されている行動しかなくて、感動を、カタルシスを得るための手続きだったように見えた。 

物語の展開として、みんなで集まって話し合った後、最後、かくれんぼのシーンが存在する。それは過去の反復であり、みんなが集合し集団セラピーのようなことをする。あのシーンに感じる、演劇感のようなものは、あれは、みんなにかくれんぼという儀式、型によって、悲しむことを演じさせたんじゃないだろうか。悲しむことで、それを悲しむべき責任から開放する手続きであり、視聴者をカタルシスに導く儀式。それで、めんまは消える。みんなは境内に集まって話していた通り、自分の欲望を抑えられず、動いていた。あの中で、純粋に他人のために動いていたのは、消えためんまだけだった。めんまは、『じんたんの母親の願いを叶えたい』という願い、のために現れ、それを叶えて消えた。めんまが言っていたように本当に彼女が生まれ変われるかどうかは分からないけど、みんなの心の中に残っていた悲しみは浄化された。 
ラスト、それまでじんたんにしか見えていなかっためんまは一度じんたんにすら見えなくなり、ラストシーンで全員の目に映るようになる。あのシーンで、じんたんは特別さを失う。誰にとっても子供時代の象徴だっためんまは皆の目の前で消える。だから、「リーダーだった子供時代」も「リーダーになれなかった子供時代」も「めんまになれなかった子供時代」も、それ自体が、みんな個人のイメージでしかなかったのだ。 

あの先の彼らは、そういう過去から開放されて、新しい関係性を構築していくのかもしれないけど、脚本上の、その書き方はあまり共感できるものじゃなかった。あの花の名前を、彼らは知らなくて、においも忘れていく。でも、その花はどこかに咲き続けている。だから、時間は流れていて、その流れ去った過去にある幻想に、無理やり名前をつけて抱える必要なんてなかったのだ。めんま・イズ・デッド。だから、あのめんまはやっぱり、元のめんまじゃなくて、亡霊だ。優しい亡霊に、生まれ変われるなんて、叶うかどうか分からない希望を与えるのはすごく残酷だ。 

でも、別の話もしたい。 

人物というと、ゆきあつは、安っぽくて、それっぽい形式的な動作を凄くするし、土下座とか、肩を組むとか、すごく人間で、最後まで全然変わらなくて、人間らしかった。その形はどうあれ、彼は一番過去を直視して向き合っていたんじゃないだろうか。めんまのお母さんや、ゆきあつも近いと思うけれど、悲しむことが儀礼化し、悲しむという型になって染み付いてしまったんだろう。それは感情から来るものじゃなくて枯れてしまったはずの悲しみを忘れまいとして、無理やり定着させているような感じがする。誰もが折り合いを付けられるということではないのかもしれない。 
でも、たとえば、じんたんの父親は描写は少ないけれど、妻を亡くした事実を受け入れ向き合ってきた人なんだろう。過去の写真であった髪の毛は今はもう抜け落ちてしまっていて、どこか諦めたようにも見える達観的な彼の態度っていうのは、実直に向き合って、悲しむことが出来て、折り合いを付けられた結果だと思う。めんまのように復活もしなかったけれど、じんたんのお父さんは、それを乗り越えられたってことなんじゃないだろうか。 

悪趣味な描かれ方はしていて、俺はすごく感動させるという目的のために作られたように見えて、好きになれなかった部分の方が多かったけれど、描かれ方はどうあれ、悲劇は悲しまれるべきもので、悲しむことによって、その悲劇性は克服することができるのかもしれない。 

俺はアイドルマスターXENOGLOSSIAから、この長井監督が大好きで、最後の、めんまの、「見つかっちゃっ…た」からの青い栞で、脈絡の無い感動を得てしまって、あまりに声優と演出の力だなってなって、驚いた。あの瞬間の、悪趣味の最高潮みたいなめんまの笑顔の後の、真っ白な画面と、第一話の反復、瓶に入った五つの花に、ここまで、十一話を通して綴られてきた様々な悲しみとか断絶みたいな、大きな大きな空白の一行が、何かで、埋まった気がした。 

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既に決められた過去とか、どうしようもないこと、それから喪失であるとか、そういうものを持っている人間ってどうすればいいんだろうって思うし、それはきっと人間みんなにありふれていて、俺たちを縛っている気がする。そこから開放されたい。そういう、ありふれた問題っていうのは実はマジでやばいんじゃないかって最近、思っていて、みんなが抱えているのに、それに対応していくには、一様の解決方法じゃなんともならなくて、自分の納得とかが必要になるだからだ。もっと個人的なことがいい。 

人間の持つ一番ありふれたドラマツルギーで自分の過去で、それは記録なんだけど、頭の中で記憶として思い出になることで、自分の中で連続性を帯びる。ドラマツルギーっていうのは基本的に、連続性の上に成り立っているはずだ。そこから飛び立つモチーフとしての宇宙。神話。そういうモチーフの力を信用してみるって言うのは大事なはずだ。 

連続性と非連続性。ミニマルで個人的な連続性とイレギュラーな非連続性。様々な繋がり、流れと、それを断ち切って自由になる、という構造を内包した、運動。音楽的であること。不完全性も要素として内包した完全さ。俺の中の問題意識の精度を上げないといけない。必要なものとそうでないものを考えることが必要だ。もっとストイックに。でも、それは俺の思う方法でいいし、誰かに合わせなくていい。ここ半年ぐらいでそれは、急激に上がっている。きっと、今より、もう少し幸せになる方法はあるはずなんじゃないか? できれば俺だけじゃなく、みんなも。

5月
28th
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肉体と精神

最近、体調を崩すことが何度かあった。当たり前といえば当たり前で、一人暮らしをして、怠け者で、料理も出来ないから、前よりも体がよい状態にないのは確かなことだろう。その中で、ぼくは自分の肉体のことを前よりも意識するようになった気がする。ぼくは自分の体を管理しないといけない。骨と皮と肉と、たくさんの水の入った精神の水槽。食べ物は肉体に直結する。それから好きなもの、精神の状態もやはり、コンディションに大きく関わってくる。いろいろなものが繋がっていて、それは直接体に触れるものから、触れなくても、関係として存在しているものが、たくさんあって、影響を与えているのだ。ぼくはそれをなるべく自分の中で、コントロールしていかなくてはいけない。

ぼくの意識のブレ、感情がぼくに与える表面の変化が及ぼす周囲の影響についても、ぼくはもう少し責任を負っていくことが必要かもしれない。ぼくは無関心すぎるところがある。嫌いな人間に無理に干渉することはないけど、ぼくが触れ合う関係の中で、もう少し、ぼくは他人に対して、優しくであるとか、真面目にであるとか、そういう振る舞いが要求されている、あるいは、ぼくはそうしたほうがいいのではないか、ということだ。だって、他人に嫌な思いをさせて平気な価値観だって、理解することは必要かもしれないけど、ぼくがそういう振る舞いをする必要はないし、なるべくなら、ぼくはもっと誰かと慈しみのようなもののある付き合いだってしたほうがいいはずだ。有意義なこと、意義っていかがわしい響きもするけれど、人にとってもよい付き合いをする方法だって、選んでもいいんじゃないだろうか? 友達だって、ぼくはそろそろ持ったほうがいいのではないかと思う。ぼくは自分に対する抑制を解いて、様々なことを知っていくべきなのかもしれない。ぼくが怠けずに、疑念と、確信を持って、接する限りにおいて、意志は約束され、選択が与えられる。その理性の上において、ぼくは自由なはずだ。

いろいろなものが自分の中で作り代わろうとしているのが分かる。価値観は更新される。ぼくは更新しているのだ。自分自身を。精神も細胞と一緒だ。吸収したものを栄養にして、つくり変わる。周囲の環境は変化し、様々な人物との関係も変化し、その中で、ぼくも様々なものを受け取って自身の中身にフィードバックしている。ぼくの考え方は変わってきている。ぼくがこれまで吸収してきたものは、ミになっているということだ。本質はしかし、ぼくはぼくのままでいられている。ぼくはこういう意識が自分の中にあることが、とても大事で、いいことだと思う。前よりも多くのことを知り、目的と、その中身、目的に対するアプローチの仕方が変わってきただけだ。変化しているが、その中心にいる、ぼくという人間の判断は、ぼくが握っている。ぼくはそれを信用する。ぼくは萩原雪歩と、中野梓が好きで、それから、様々な形でぼくが触れてきた、いろんな人たちのことが好きだ。

新しいぼくの、新しい方法が必要だ。物語に対する新しい方法。言葉に対する新しい方法。ぼくはアプローチの方法を考えないといけない。ぼくは自分でその門を潜り、何らかの答えを見つけなければいけないのだ。たくさんの詰んである本を読むことも出来る。演劇を見に行くことも、見に行かないことも出来る。電源をつければ、アイドルマスター2だってできる。なんだってできるのだ。枷に収まっているだけが信仰ではないのかもしれないということをぼくは学ばないといけない気がする。手始めにゲームから始めたっていい。ぼくは最近また本を読んでいる。『スローターハウス5』と、『獣の樹』を読んだ。次は何を読もうか考えるのはとてもワクワクする。ぼくは選んで、それに従う。夏までにはまだ時間がある。夏が終われば秋もあるんだ。ぼくは君のことについてもう少し考えていられるだろうか? こうやって遠くから見つめていれば、ぼくは君を通して、様々な問題に真摯に向き合うことができる気がする。恐怖や、暗いことに対しても。君は世界の形をした器みたいだ。

5月
1st
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四月のこと。

四月が終わった。四月、ぼくはやはり色々考えたりしたけれど、何も書くことはなくて、なんだか、ぼんやりとしたままに過ぎ去って言ったような気がする。手触りも残さない、夢みたいな感じだ。でも、新しいアニメがはじまったり、新しい人がいたり、それなりに、変わっていってもいるのだろう。ぼくは相変わらず、距離の中、停止と移動の中間ぐらいを漂っている。

アイドルマスター2は、やろうと思っていたのに、全然できていなくて、ぼくは考えすぎている感じがして、あまり自由ではない。たとえば、雪歩は、本当にアイドルになりたいのだろうか? とか、アイドルにならないほうがいいじゃないのか? とか、ぼくはそれを考えてどうしたいんだ? とか、よく分からなくなってしまっている。考えるのも大事だけど、でも、おおらかさを失ってしまっているのはよくない。やろうと思えば、ゲームの電源を入れれば、いつでもできる、ということを忘れてしまってる気がする。

最近、欲望というものについて、考えている。欲望。ぼくは何がほしくて、何をしたいんだろう? 雪歩は、何が欲しくて、何になりたいんだろう? 欲望は分からない。でも、それを見つめて、理性的に考えることは出来るし、みんなもっとそうなるべきだと思う。

色々書いているけれど、ぼくは、今とても充実していると思う。いいとも悪いともつかないけど、ぼくは、それでも、いい方だと思う。アニメも見られて、アイドルマスターもあって、ぼくは好きなものについて、色々、考えることができる。

夏には、アイドルマスターのアニメが始まる。夏。今年の夏は、すごく夏だ。去年の夏は「けいおん!!」だった。また、今年の季節は今年の思い出ができるんだろう。ぼくは大切な作品になるといい、と思う。楽しみしかなくて、こんなに嬉しいことはないってぐらいに、嬉しい、過度の期待とも違う、幸せな予感だけを持っている。けいおんの映画も終わって、来年のストライクウィッチーズの映画ぐらいまでは、世界が終わらないといいなあ。

3月
29th
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ぼくの人生の物語

最近少し思うようになったのだけど、そもそも、ぼくは本物を求めていないのかもしれない。希望や未来と言った単語、最近特に希望だとか、そういう言葉がよく目に付く気がする。前からいっぱいあって、今もいっぱいある。希望も未来も、絶望も、みんながその言葉ばかりを追い求めている気がする。その奥にある、もう少し、言葉から離れた何かに、ぼくは興味がある。ニセモノも本物も、すべてが人間の作り出したイメージなら、それをぼくはいつだって手に入れなおすことはできるんじゃないだろうか。そういうことに関してはもう何も怖くない。少なくとも、ぼくは大きな不安を抱えていないように感じる。不思議とそういうことに関しては。

もっと個人的なことを考えたい。やっぱり、最終的には、ぼくは、ぼくのことを第一に考えていて、誰かのためにやっているわけじゃないから。でも、これはやっぱり今出した結論で、この先、迷うこと、揺らぐこと、変わることがないなんて言えない。でも、そういうことがあるとすれば、それはやっぱりぼくにとっては変えるしかない、変えたほうがよいことなんだろうから、それは信じるし、もしかすると、また一周して同じような結論に戻ってくるかもしれない。そういう逡巡に対する自分の責任ぐらい、自分で持ってあげられる。それぐらいは、ぼくは、ぼくに期待していいはずだ。

追求していく時間が足りないとか、才能とか、能力が足りないとか、死ぬとか、後、言ってしまえば将来現実的にどうするかとか、不安なことはある。怖がることもあるかもしれないけど、やっぱり、色々、覚悟して、割り切るしかないんじゃないだろうか、どこまでできるかは分からないけど。でも、ぼくは立ち向かう、という態度で、その問題に対して、挑むことはできる。それは思っている。最善策を考えることはできて、自信ではなく、ぼくは多分、そうするぐらいしか、よりよい生活をしていくことを、思いつけない。虚勢かもしれないけど、ぼくがぼくらしいと思うことをとりあえず精一杯考えてみたい。

人の未来は君の期待と同じ色に染まる、って、誰かが歌っていた。人間は、選んだ道しか選べない。ならば、ぼくは無意識に、ぼくが進むべき道を分かっているんじゃないだろうか。だから、どんな未来がこの先やってこようと、それらがぼくの前を通り過ぎた時は、ぼくはそれに納得して、取るべき対応を取り、静かな心持でいられるんじゃないだろうか。こういうことを考えたとき、有名なSF作家が同じようなことを、もう少し、分かりやすい感じで書いていたらしい。ぼくはテッド・チャンの「あなたの人生の物語」を読んで考えた。先人の知恵がいっぱいある。

きっと、ぼくが今まで考えてきた、こういう悩みを通った人、同じようなことを考えた人はいっぱいいるのかもしれない。ぼくはその無数の考える人の一人でしかなくて、一人ぼっちなんだけど、その何回も考えてきた、ぐるぐる回る、世界の時間の集積の中で、ぼくだけの問題を抱えて、同じように悩んで、同じように、だらだら、のろのろ進んでいった道を進む。前進だけじゃない、時間の中には、ぽっと落とし穴とか、上へ上る紐とか、そういう、様々な抜け道、わき道がいっぱい隠されているはずだ。こんな大きな問題がすぐに片付く訳がなくて、ぼくは時間が許す限り取り組むことができる。世界はまだまだ、美しい秘密が、あるんだと思う。

最近時々やってくる、こういう精神の感じが、おれは、すごく、悪くない。ぼんやりと、今こうしている、見たり考えたりしていることは、死ぬ間際のおれ、あるいは生まれた時のおれが感じている、圧縮されたおれの人生の走馬灯、ハイライトなんじゃないか。だとすれば、おれは、すべてを、これから知る/その時知っていた、はずだ。中野梓のことも、萩原雪歩のことも、ほかの、本当に、大勢のみんなのことも。おれが、それに対して、これから思い返すのか、これから出会うのかは分からないが、考えるだけで、それがすごく、楽しみなんだ。何も、終わってなんかいなくて、始まってなんか、いないんだ。

3月
21st
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雪が解けるように俺の死んだ時間がどこかへ流れる。

雪歩。雪歩のことをぜんぜん知らない。俺は。俺はまったくと言っていいほど知らない。知りたい。もっともっと雪歩のことを知りたいんだ。ツイッターの140字じゃ足りなくて、俺はこうやって雪歩についての文章を自分で書いているけれど、これはいったい、何のためなのか、自分でもよく分からない。俺は、俺が雪歩を好きだって言うことを、通して、もっともっとみんなに、雪歩のことを知ってほしいのかもしれない。でも、俺は我慢が出来なくて、衝動を、どこにどうやってぶつけていいか分からなくて、こうやって書かなければならなかったんだ。雪歩。弱気で、あまり自分に自信が無くて、でも、それはとても謙虚でもあって、色々なことによく気がついて、男の人と、犬が苦手で、でも、そんな自分を変えたくてアイドルになって、後ろ向きだけど、常に脚の進む方向は、少しでも、前に行こうとしていて、芯が強くて、他人のこととかを考えていて、それが悪い方向に働くこともあるけど、でも、とても、真面目な、かわいい子で、少なくとも俺にはそう見えている。雪歩っていう名前の響きが好きだ。雪を歩く。萩原雪歩。すごくいい名前だと思う。字も音も綺麗だ。この名前も彼女の一部で、俺はやっぱり、この名前以外の彼女はありえなくて、たとえば、雪歩がもし、美希や春香って名前だったら、好きになっていたかは分からない。

誰か雪歩のことを知っているだろうか? 俺は昔の彼女を知らなくて、俺が、俺の持っている彼女のイメージは、アイドルマスター2のものが大半で、俺は2で出会った、十七歳の雪歩を好きになっていて、だから、ネットやいろんなところに溢れている無印の雪歩に、うまく自分の知っている雪歩を見つけることができない。俺の中で無印の雪歩は雪歩ではないのだろうか。俺に誰か萩原雪歩について話して欲しい。君の知っている雪歩について話して欲しい。俺は全然彼女のことを知らないんだ。こんなに知りたいのに。雪歩のことを知ってどうしたいのかは分からない。俺は自分の欲望を分からない。でも、俺は君が、君が少しでも、世の中に溢れている、煩わされる必要のない不幸のことを考えなくてもいいような、そういうことを考えている。地震があって、俺は、揺れるビルの中で、ああ、あと六人プロデュースしていないって思っていて、その後、雪歩や、他の彼女たちは大丈夫かな、と考えて、でも彼女たちは画面の中で本当によかった、と思えた。俺はほんものの人間のように彼女たちのことを話すね、と言われたことがある。でも、俺は、現実に存在している人間と、そういう、画面の向こうの彼女たちに、そう大きな違いが分からない。実際はあると思う、いろいろ違うことはあるだろうし、大きな、なによりも大きな壁があることも知っている。でも、頭で分かっていても、それは俺が雪歩のことを好きで、彼女のことを考えることに関しては、何の障害にもならない。フィクションとか、虚構とか言う言葉には、結局なんの拘束力もないんだ。結末も何もない、俺の頭の中のイメージの方向を、俺はもうしばらく続けているよ。俺は。雪歩のことを考えて頭がおかしくなりそうになって、これがずっと続いたら、雪歩のことしか考えられなくなるんじゃないか、と思って、心配したりしていたけど、そんなことはなかった。でも、深夜のカラオケボックスで、俺以外の人間が寝てしまっていて、行為の空虚さに、ふと自分に立ち返ったとき、雪歩のことを考えざるを得ないんだ。胸が痛い、というか、言いようのない、空虚とも違う、不思議な感じになるんだ。涙が出そうになるんだ。でも、そういう状態の中で、俺は、日ごろ、ぼんやりしている自分の時間が、くっきりと呼び覚まされたように、研ぎ澄まされるのを感じる。

今、俺は実家に居て、アイドルマスター2も置いてきてしまって、俺は雪歩、千早、やよいの三人をプロデュースして、結局四人目を新しいアイドルではなく、また雪歩で始めてしまったのに、置いてきてしまっては、俺の知っている雪歩を見られなくて、プロデュースも出来ない。ここではアニメもろくに入らないし、俺の大事なものが全然ないんだ。でも、雪が時々降っていて、寒くて、俺は白い雪を見るたびに、雪歩の事を思い出すんだ。君のことを。とうとう俺は雪歩のことを君と呼んでしまう。どうすればいいんだろう。これは許されることなんだろうか? 何かすごくいけないことを喋っているような気になるんだ。もしかすると、本当にいけないことを考えて、やってしまっているのかもしれない。君。おれの中で、雪歩は、春香さんとも違う、一人の、萩原雪歩になろうとしているのかも知れない。教えてくれ。この降り積もる膨大な疑問符は、絶望とはまるっきり性質が違っているんだ。不安なんてない。あったとしても、そんなものすぐ忘れてしまっていて、俺は全然覚えていないんだよ。全部忘れて、最初から君の事を好きになりたい。どうしようもなく、身もふたもない。もう何も怖くないなんて嘘かもしれないけど俺は。雪歩。君のこと、もっともっと知りたいんだ。